2023年


ーーー12/5−−−  山上の珍妙なる会話


 
何年も前の事を思い出したのだが、有明山の集団登山に参加した事がある。一般募集をした50名ほどが、未明に出発して、表登山道から山頂に向かい、登頂後は中房温泉に降りるという、一日がかりのイベントであった。

 山頂で昼食となったが、一行の中に元気の良い中年女性が3人ほどいて、賑やかに喋りまくっていた。そろそろ下山にかかる時刻が迫った頃、女性の一人が、「おトイレしたくなっちゃった」と言った。登山の案内係りのベテラン男性が、「そこらの藪に入って済ませればいいずら」とアドバイスをした。山頂にはトイレなど無いのである。

 女性が「じゃあ、そうするわ。でも、見ないでよ。見たらお金貰うよ!」と言った。男性が「お金って、いくら取るだいね」とからかうと、「一万円」と答えた。「おや、ずいぶん安いでねえかい」と突っ込んだのに対して、女性はあっけらかんとした感じで、「だって、お尻だもん」と応え、居合わせた男性陣の失笑をかった。

 山に登ると、心が解放されてか、あるいは気持ちがハイになってか、普段と違ったひょうきんな態度や発言に走る人がいる。そのような変貌は、特に女性に多い。この女性も、町場ではこんなやり取りをする人では無いように見受けられた。もっとも、町場では藪の中でトイレをすることも無いだろうが。

 ともあれ、肉体的、精神的試練の末に登り着いた山の上では、気持ちが満ち足りてリラックスし、同じ状況を共有することで、他者に対する意識の垣根も低くなる。それで、下界ではちょっと憚られるような珍妙な会話も、躊躇なく飛び出したりするのである。 





ーーー12/12−−−   「象嵌物語」のヒストリー


 
山やライチョウ、コマクサなどをモチーフにした象嵌加工のアクセサリーを「象嵌物語」と命名し、山小屋に売り込んだのは、昨年3月のこと。採用されて、売店に置いて貰うことになったのだが、当初はどのような展開になるか、期待と不安が交錯した。

 夏山シーズンが始まる頃から、売れ行きが出始め、次第に予想を上回る展開となった。夏から秋にかけて、毎週のように追加注文が入り、昨シーズン末の集計では、350ヶとなった。注文は全てこなしたから、シーズン中に納入した数も350ヶということになる。そのような数になると、製作はかなり厳しい。最盛期には、毎日朝から晩までこの仕事に没頭し、ついに背中の筋を痛めた。

 そのような辛い経験から、シーズンが終わりに近づいたとき、山小屋へ上って販売担当スタッフと話をし、来シーズンに向けた商品を、冬の間に作っておくことを提案した。スタッフは、「発売初年度は売れ行きが良くても、翌年以降は伸び悩むことがある」などと慎重な見解を示したが、数日後に連絡があり、結局220ヶの注文を頂いた。

 12月から今年の4月にかけて、せっせとその製作にいそしんだ。またしても背中の痛みが再発したが、なんとかオープン前に全数を納入した。

 これだけの数を納めれば、今シーズンはお声が掛からないかも知れないと思った。ところが、8月と9月に追加注文があった。結局今シーズン、9月末までに納入した数は、春先に納めた220ヶを含めて、320ヶとなった。その後も注文があったのだが、10月初めからリンゴ農園の仕事が入ったので、応じることが出来なくなった。そのことを伝えると、いったん注文はリセットし、あらためて必要数を集計して、来シーズンに向けての発注をするとの返事を貰った。

 今期の山小屋営業が終わりに近づいた11月、415ヶの注文があった。この数量を作るとなると、30週間くらいはかかる。全てを4月の中旬までに納めるのは不可能だ。その点はご了解を頂き、分割納入で可とし、取りあえず出来上がった分だけ4月に納めるということに落ち着いた。

 それにしても、こんなに売れて、繰り返し注文が舞い込んで、嬉しい悲鳴をあげる状態になるとは、まったく想定外であった。

 十年ほど前に、伝統工芸作家のK氏に勧められて象嵌細工を手掛けるようになった。どうやら私は、この手の細工と相性が良いようで、ビジネス的展望など無いまま、面白がって精進を重ねた。数年後には、それなりの作品として確立し、商品として販売するようになった。例えば→こちら。これらの作品は、プロの木工家の中には高く評価する人も居たが、なかなか売れなかった。展示会の場で並べても、一つも売れないケースの方が多かった。のみならず、来場者が全ったく関心を示さないと言う、寂しい状況すらあった。自分が精魂込めて作り出している物が、世の人々にさっぱり認めて貰えないというのは、悲しく、辛い事であった。

 今回、作品のタイプも、価格帯も異なる物ではあるが、象嵌作品が大勢の方々の目にとまり、お買い上げ頂いているのは、まことに嬉しいことである。木工家具作家が、登山者相手の土産物作りに身を落とした、と見ている人も居るかと思うが、私はちっとも暗い気持ちでは無い。むしろ、充実した気持ちで製作に取り組んでいる。ビジネス的な成果や、売上金の大小ではなく、自分の創意工夫の結晶が、世の人に認めて貰えるのが、幸せなのである。作家とは、そういうものであろう。

 さて、話がそれたので、元に戻そう。

 かくして、この冬も象嵌仕事の日々となりそうである。心配なのは、作業で疲労が溜まり、背中を痛めることである。昨年来、そのことで頭を悩ませてきた。痛みを和らげるために、湿布、貼り薬からはじまり、整骨院、鍼灸院にも通った。もっと本質的な対策として、痛みが生じないための作業方法の改善も、いくつか試した。痛みが出るのは糸鋸作業である。

 電動糸鋸盤を導入することは、以前から度々頭に浮かんでいた。外国製の高級糸鋸盤が置いてあるショップに出掛けて、試しに使ってみたこともあった。結果は満足できるものではなかった。私が保有している糸鋸盤を改造して使うことも考えた。ちなみに現状では、その糸鋸盤に刃をセットし、始動した瞬間に刃が破断する。そんなに細くて弱い刃なのである。そこで、刃にテンションを加えるバネを軟らかいものに交換し、さらにモーターの回転速度を遅くする装置を付けて、なるべく刃に負担が掛からないようにすることを考えた。考えただけで、実行はしていない。私の象嵌仕事は、糸鋸で模様を切るため、頻繁に刃を通す位置を変える。その操作が、糸鋸盤ではかえって面倒なように思えたからだ。結局、私がやっているような繊細な糸鋸作業は、手作業でなければ無理だという結論に至った。

 レーザー加工機を使って図柄を切り抜くことも検討した。装置を貸し出してくれるメーカーがあったので、取り寄せて試してみた。僅か2ミリの板厚でも、貫通させて切り抜くとなると、熱量が過剰で焦げてしまう。細かい所は、焼け落ちたようにボロボロになってしまう。これでは、使えない。焦げて損傷しない程度の深さで溝を掘り、それを手の糸鋸でさらうという事も考えてみたが、全体の工程が煩雑になるだけでたいしたメリットも無いように思い、諦めた。

 結局手で糸鋸作業をしるしかない。その作業方法を改善することが必要だ。連続して糸鋸作業をやると疲労が蓄積するので、嵌入作業と交互に行うことにした。これまでは、1ロット20ヶくらいをまとめて糸鋸加工をし、その後嵌入をするという流れだった。その方が作業能率が良いからである。能率は良いが、疲労は溜まる。そこで、各部材について、模様の部分ごとに、糸鋸を挽いたら続けて嵌入をするという、短いスパンに切り替えた。嵌入の間に休めるというわけ。これは、効果がある。

 糸鋸の挽き方も変えた。これまでは、向こうから手前に切り進める方法を使って来た。これは、刃先が見えるので墨線をたどり易いというメリットがある。世間一般では、このような切り方をしない。我ながら良いことを思い付いたものだと自負していた。しかし、この方法が、大きな疲労に繋がっているような気がしてきた。そこで、試しに手前から向こうへ切る方法をやってみたら、腕の疲労感に大きな差があることに気が付いた。引いて切るより、押して切った方が、疲れないのである。たぶんその方が、体の動きとして自然なのだろう。しかも、力が入るから、切り進める時間も短くて済む。デメリットとしては、刃が邪魔をして刃先が見えず、墨線から外れる恐れがあること。これは慣れるしかないだろう。世間の人はみんなこのようにやっているのだから、克服できないはずはない。ただし、どうしても細かくてデリケートな部分を加工するときは、糸鋸を反転して使うことも、あってよい。

 糸鋸を持つ右腕が常に宙に浮いているので、それを支えるために背中の筋肉が疲労すると考えた。そこで、右肘を床からサポートする道具を作った。最初は単なる台を設置したのだが、使ってみたら動作がぎこちなくなり、加工精度に支障が出た。次いで、肘をサポートしながら上下動ができる、ピストン式に変えた。それに肘を乗せたまま、足踏みで上下させる仕組みも試してみた。いずれも、腕の動作が制限され、細かい図柄を正確に切り抜くことは出来なかった。最後に行きついたのは、布の袋に綿を詰めた丸い枕の様な物。それを肘と腰の間に挟む。少しは肘の支えになるし、腕の自由度の制限も少ない。デメリットは、刃を挿し変える度に枕を置いたり外したりしなければならない面倒さ。それでも、背中を痛めるよりは良いと思う。

 以上は、実際の作業に関する工夫、改善であるが、心理的な面でも、解決しなければならない事があった。大量の仕事を目の前にすると、プレッシャーにめげそうになる。力づくでやったり、機械に頼って出来る仕事では無い。一つ一つ手作業で行なう細かい加工である。品質を維持するには、それなりの集中力を要する。焦れば、品質の低下を招く。しかし、急がなければ、期間中にノルマが達成できない。そのジレンマに苛まれる。時には、行く手の道のりのあまりの遠さに、絶望的な気持ちにもなる。イライラと無力感が入り混じって、仕事に手が付かない時もある。体に疲れが溜まると、一層そのような状態になる。前向きな意欲を維持し、創造的なモチベーションを保ちつ続けるのは、なかなか難しいのである。

 そこで、この冬に向けて考え付いたスローガンは「笑顔で象嵌物語」。余計な心配や、悲観的な予測、自らを追い込むような努力目標などは捨て去って、今やっている作業の一つ一つについて、それが与えられていることを感謝し、自分が作り上げてきた世界を大切に思い、愛し、常に笑顔で楽しみながらやるということ。それでどのような結果になるかは、神様の御心にお委ねするしかない。




ーーー12/19−−−  悲しい標語


 私が10年以上前に、自分で作った標語がある。それを、いまだに口にすることがある。それは、「起きてても 飲んじゃうだけだ もう寝よう」。

 夕食時に晩酌をする。飲み始めれば、どんどん進む。夕食後もダラダラと飲み続ける。そして酔っぱらうと、もう何もできない。仕事はもちろんのこと、読書も出来ない。録画したテレビ映画を見ても、印象に残らない。楽器の練習をしても、たぶん意味が無い。かろうじて日課的に行っているのは、ブログの更新。その日の出来事を記事にしてアップする作業である。それも、酔いの程度がひどいと、間違いだらけですごく時間がかかる。

 結局、酔っぱらっても出来ることと言えば、飲み続けることと、寝ることくらいしか無い。しかし、調子に乗って飲み過ぎれば、健康に問題が生じるのは必定。それ以前に、深酒が翌日に響けば、仕事に差し支える。また、量が増えれば酒代もかさむ。要するに、ろくなことは無い。それらを避けるには、寝てしまうのが一番。そこで、冒頭の標語が生まれた。

 なんだか、人生の無駄遣いを象徴しているような標語である。悲しく、寂しい標語である。




ーーー12/26−−−  今年を振り返る


 今年も年末が近づいてきた。この一年をざっと振り返ったら、特筆すべきことは何も無いように思えたが、ちょっと掘り下げれば、ほどほどのトピックスは広範囲に散りばめられていた。

 稼業は、今年も「象嵌物語」に追われた感がある。その一方、10月になって、コロナ以来パッタリと途絶えていた家具の注文が入り、11月以降はその製作に勤しんだ。そのタイプの椅子を作るのは数年ぶりだったが、腕が衰えていなかったのは嬉しかった。

 全く新しい事と言えば、リンゴ農園でのアルバイトを経験した。4月の摘花作業と、しばらく後の摘果作業。そして10月の収穫作業。朝8時から夕方5時まで、昼休みの1時間を挟んで8時間労働。この作業の日々は、いろいろな事を考える機会となった。自然がちょっと意地悪をすれば、たちまち被害を被る果樹農業の厳しさを、目の当たりにした。また、黙々と同じ作業を繰り返す労働を、身を持って体験した。そのおかげで、自分にも粘り強さのようなものが身に着いたように思う。それは自らの工房の仕事にも、生かされる事だと思う。意識に刺激を受けることは、大切だ。

 6月に、日本山岳会の「上高地山岳研究所」通称山研に、二泊三日で滞在した。会社員時代の山の仲間が集まって、初夏の上高地の風物を楽しみ、夜は賑やかに宴会をするという企画。山研の存在は以前から知っており、一度利用したいと思っていたが、その望みがかなった形である。上高地を訪れたのは13年ぶり。やはり第一級の山岳景観の地であることは間違いないと、再認識した。チャランゴを背負って散策をし、徳沢園の芝の広場でちょろっと演奏をしたのが、軽めの新鮮な体験だった。

 8月に長女が孫娘二人を連れて帰省したとき、私が発熱し、病院で検査をした結果、コロナに感染していることが判明した。体調が回復するまで4日ほど寝込み、せっかくの孫たちのホリデーは台無しとなった。気の毒な事をした。それはさておき、変な言い方だが、私もようやくコロナにかかったという思いがあった。社会の流れに乗れたような、妙な安心感のようなものを抱いたのである。人間の感情と言うのは、不思議だ。

 教会の聖歌隊長の役に着き、任期二年目にして、ようやく聖歌隊にコロナ前の活動が戻ってきた。イースターやクリスマスその他の礼拝で、讃美歌の合唱を披露し、またクリスマスのキャロリング(讃美歌の出前演奏)を実施した。それらのために、他の教会行事が無い限り、毎週礼拝後に居残って練習をした。聖歌隊は、混成四部合唱である。キャロリングは、無伴奏で歌う。このような、小さいけれど本格的な合唱団に入り、歌う楽しさを再発見した。なにしろ、合唱をするなどというのは、中学校の音楽の授業以来である。

 胴体もろとも饗板が破損したチャランゴを貰い受け、自分で修理をして使い始めたのが3年前。そのチャランゴは、不完全な状態にもかかわらず、自分では気に入っていて、時折演奏に使っていた。しかしこの7月、再び饗板が破損した。もはや自分では直す事が出来ないので、以前木工のグループ展でご一緒した楽器製作家のI氏に修理を依頼した。I氏の手によって、チャランゴは綺麗な姿で蘇った。この件に関して、二度I氏の工房を訪ねたが、その折に聞いた楽器製作の話がとても興味深く、印象に残った。このチャランゴを弾くたびに、私はI氏との交流の時を思い出すだろう。

 9月、自転車好きの友人に付き合って、長野県一周サイクリングルートの一部となっている、穂高から白馬までのコースを走った。友人は千葉から自転車を輪行袋に入れて、列車でやって来た。私はと言えば、この地に住んでいながら、そのような遠方まで自転車で行ったことは、これまで無い。サイクリングそのものも楽しかったが、合間に友人から聞いた、現代の自転車事情に関する話が面白かった。自転車は身近な道具であるが、その世界にちょっと踏み込めば、間口が広く、奥も深い。興味をそそられて、私の気持ちもその世界に傾きかけたが、私はローラ台のトレーニングで良しとしよう。

 あんなに好きだった登山が、さいきんめっきり冷めた。今年は仕事がらみで燕山荘に上がり、ついでに燕岳の山頂に立っただけの、一回きりであった。かくのごとく、本格的な登山からは遠ざかっているが、何時でも山に登れる体力を維持すべく、裏山登りのトレーニングは続けている。今年は31回登った。その他に、マツタケ山の整備作業で、毎週土曜日に里山に入っている。こんなに熱心に山の手入れをしているのに、この秋のマツタケは全く不作で、小さいのが二本しか採れなかった。

 蕎麦打ちは、相変わらず週に1回程度のペースで行い、ほぼ毎日、昼食はザル蕎麦である。7月に、これまで購入実績のあった業者から蕎麦粉10Kgを取り寄せたが、品質が劣っていた。問い合わせると、やむを得ない事情であることが分かった。蕎麦粉は、ややこしいのである。ともあれ、これを半年間に渡って使い続け、食べ続けなければならないと思うと、憂鬱だった。しかし、3ヶ月ほどすると、状況は一変した。蕎麦粉は届いた時点で、一回に使う分ずつ小分けしてビニール袋に入れ、冷凍庫で保管している。10月に入る頃、それまでパサついていた蕎麦粉がしっとりとしてきて、茹で上がった蕎麦も長くつながるようになってきた。低温熟成ということか? ともかく、これは嬉しい変化だった。

 このような日常ネタしか思い浮かばないということは、平穏な一年だったと言うべきだろう。

 今年もマルタケ雑記にお付き合い頂き、有難うございました。来年もよろしく、お願い致します。

 どうぞ良いお年をお迎え下さい。